偶然にも、似たようなストーリーを辿る小説を立て続けに読んだ。

ペンギンの憂鬱 』と『永い言い訳 』だ。

 そして思ったこと。

 

孤独は死に至ることもある病だ。

そしてそれに打ち勝ち続けるための方法は、愛があってもなくてもいいので、淡い情を抱けるという関係性でもいいから、「誰かと一緒に暮らすこと」なんじゃないかと思った。

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孤独な小説家が擬似家族と暮らす、ふたつの話
  • 孤独に打ち勝ち続けるための方法は、愛があってもなくても誰か一緒にと暮らすことなんじゃないか?
  • 憂鬱症の皇帝ペンギンと、愛情はないけど思いやりのある暮らしを送る
  • 永い言い訳
  • 予定調和がぶっ潰されて、楽しいことに巻き込まれるのが大好きだった。誰かと暮らすってそういうことなのだと思う。
  •  

    孤独な小説家が擬似家族と暮らす、ふたつの話

    ペンギンの憂鬱 は、ウクライナのアンドレイ・クルコフ著。

    売れない小説家が憂鬱症を患っている皇帝ペンギンと暮らしながら、まだ死んでいない人物の追悼記事を前もって書く仕事をしている。ひょんなことから知人の娘、そのベビーシッターと一緒に擬似家族のように暮らすようになるという話。

     

    永い言い訳 は、西川美和著。

    人気小説家の衣笠幸夫は、妻夏子を不慮の事故で亡くす。夫婦関係の冷え切っていた幸夫は涙も出てこない。

    共に事故で亡くなった夏子の親友ゆきは、夫・陽一と二人の子供と暖かい家庭を築いていたが、ゆきが亡くなったことで家庭がうまく回らなくなっていく。

    幸夫は陽一に、子供の世話をすることを申し出る。

    週に2回、擬似家族のように一緒に過ごすうちに、子供達に愛情が芽生えてくる幸夫。

    この家族には、いま僕がいないとダメなんだ。そう自分の存在を肯定されたようで、これまでにないような満ち足りた感情を抱くようになる。

    そして、自分が夏子に対して抱いていた感情がどういうものだったのか向き合えるようになる。

    というような話。

     

    孤独に打ち勝ち続けるための方法は、愛があってもなくても誰か一緒にと暮らすことなんじゃないか?

    偶然にも、どちらの物語も、

    孤独を感じていた男(しかもどちらも物書きだ)が、血の繋がっていない子供や大人と擬似家族のように暮らす、という部分が物語の大きな部分を占めている。

     

    冒頭に書いた通り、私は「孤独」というのは死に至ることもある病だと思う。

    寄せては返す夜の波のように、すーっと忍び寄ってきて気づけばどうしようもない陰鬱な気持ちに浸水されていて、

    朝がきたらすーっと波は引いていて、けろっと出勤したりする。

     

    寄せては返す孤独とか闇のようなものを、今晩乗り越えられたら明日は生きてるけど、

    たまたま、いろんな事情が重なって、今晩たった一度糸が切れて乗り越えられなければ、明日以降もう生きてない。

    この波は寿命が来るまで乗り越え続けることが必要なのだと。

    そのために一番有効な方法は、物理的に孤独でなくなることなのではないかと思ったのだ。

    つまり誰かと一緒に暮らすということ。

     

    家族でなくても、夫婦でなくても、

    それこそ知り合いの子供でも、ペンギンでも、ベビーシッターでも、シェアメイトでも友達でも実家の家族でも、

    誰かと暮らす、ということが孤独を癒すのではないかと思う。

     

    ふと、夜の街を散歩したくなった時、「散歩しない?」って誘える人がそばにいるかいないかで、気分が晴れるかどうか変わってきたりする。

    鍋しようって言える人がいること。

    さみしいねって言える相手がいること。

    抱きしめさせてくれるペンギンがいること。

    自分がいないと生活が立ちゆかない動物がいること。

    そこに愛情があってもなくてもどちらでもよくて、孤独を共有できたり、共有できなくても言葉を交わしたり、一緒に時間を過ごせるだけで、多分違うのだろうと。

     

    この2つの物語を読んで、そういうことを思った。 

     

    憂鬱症の皇帝ペンギンと、愛情はないけど思いやりのある暮らしを送る

    あらすじ

    舞台はソ連崩壊後のウクライナの首都キエフ。

    恋人と付き合ってもいつも去られてしまう売れない小説家ヴィクトル。

    憂鬱症の皇帝ペンギン・ミーシャと暮らしている。

    生活のためにある仕事を始めた。まだ生きている政治家や軍人たちの、新聞に載せる追悼記事をあらかじめ書いておくという仕事。

    暮らしは程々豊かになったが、ヴィクトルの身辺には不穏な影がちらつく。

    ある日ヴィクトルの知人は姿を消してしまい、娘ソーニャを預かることになる。

    唯一の友人と言える警察官のセルゲイの姪のニーナをベビーシッターとして雇い、

    ヴィクトル、知人の娘、そのベビーシッター、そして憂鬱症のペンギンと共に暮らすようになる。

     

     

    ラストはソ連的ブラックムード(?)に包まれて終わるのですが、

    この小説に流れる憂鬱な、それでいてゆっくりとしたペースで暮らす様子がとても好き。

    擬似家族ごっこをする生活構成員に淡い情を抱きつつ、いつこの生活が終わるか分からないという怖さとも隣り合わせで、そんな環境にもするっと適応して暮らすヴィクトル。

     

    後で言及する『永い言い訳 』の幸夫と違って、擬似家族に愛情を抱いたり自分の存在意義を見出したりしないのだけど、

    愛情があってもなくても、誰かと暮らすことで、一人で暮らす孤独を感じないで生きていけるんだな、と淡々と事実確認するように暮しているこの主人公がとても好きだな。

     

    前までは孤独だったのに、今では半ば孤独で半ば他人と頼りあっているような、どことなく中途半端な状態だ。 

    俺の世界は、俺自身とペンギンのミーシャとソーニャで成りたっているが、この小さな世界はあまりに脆くて、何かあっても、とてもじゃないが守りきれないように思う。しかも、それは武器を持っていないからでも、カラテの技を知らないからでもない。ぜんぜんそうじゃない。

    ただ俺たちの世界自体があまりにも壊れやすいせいなんだ。

    本物の愛情もなければ、ひとつにまとまろうという意志もないし、女性もいない。

    ソーニャは身内でもなく一時的に預かっているだけの女の子だし、ペンギンはあろうことか、病気で憂鬱症ときてる。しかもペンギンのやつ、冷凍魚をもらっても、お義理にも、犬みたいに尻尾を振って感謝の気持ちをあらわしたりしない……。

    ペンギンの憂鬱  

     

    (ペンギンに対して)とくに強い愛着は感じていなかったものの、互いに依存しあっていることはわかっていたので、ほとんど親戚のような、愛情はなくても思いやりはあるという関係だった。

    親戚というのは、必ずしも愛する必要はないけれど、面倒を見たり気づかったりしなければならないものだ。でもこの場合、感情や心情なんて二の次で、どうてもいいこと。うまくやってさえいれば…。

     ペンギンの憂鬱

    ペンギンとの生活が親戚との間にあるような、愛情はなくても思いやりはある関係だと言い切るヴィクトル。

     

    目を開けて横になっていると、きちんとした日常生活というものが妙に心地よく感じられるのだった。

    自分には何もかも揃っている、まともな生活に必要なものが揃っている、と横になったまま思うのだった。

    妻、子供、ペットのペンギン、自分。これら四つをまとまったひとつのものと考えるのが不自然だということは百も承知だったが、不自然でも心地よく、一時的な幻影でも幸福を感じることができるので、「百も承知」は頭から払いのけていた。

    もっともその幸福感は、幸福とはこういうものじゃないかと朝起きぬけの理性的な頭で描く幻影とは違うかもしれない。でも、いずれにしろ朝、理性的な頭で考えることなど、夜にはどうでもよかった。

     ペンギンの憂鬱

     

    この文章に全部込められてるなと思った。

    夜のぼんやりした頭で、幸福感のようなものを感じられたら、ちゃんと眠って朝を迎えられるのだ。

    どんな形でも、そこに愛情ではない情のようなものがあるだけで一緒にいる擬似家族でも、人と暮らすことっていうのはやっぱり幸福感があるものなんじゃないかと、そういうことを思った。

     

    永い言い訳

    あらすじ

    人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、妻の夏子と冷え切った夫婦関係を続けていた。

    売れない作家時代に、夏子に家計を支えてもらったことから男としての自尊心が傷つけられて、妻への愛情はひねくれたものに変質してもうどうにも戻れない状態。

    その夏子が、スキー旅行への途中に不慮の事故に遭い、親友と共に無くなってしまう。

    夏子の親友の夫・陽一は、妻を亡くして歪になった生活をどうにかきりもりして二人の子供と共に生きている。

    長男は中学受験に燃えていたものの、幼い妹の世話で塾に通うこともままならなくなっていく。

    幸夫は、陽一に二人の子供の世話を申し出る。

     

    子供はアンコントローラブルだからと一線引いていた幸夫だったが、一緒に時間を過ごすうちに子供たちへの愛情が芽生え、自分がこの家族に必要とされているという事実に安堵感を覚える。

     

    例えばここ。

    子供との関係性をどうやって築けばいいのかさっぱりわかっていない大人の様子が笑える。(そしてこれは自分そのものだ)

    「すごく集中力を感じるし、几帳面だね。それでいてダイナミックだと思う。繊細さと大胆さが兼ね備わってる、って言うとありきたりだけど、分かるかな」  当然彼女は沈黙した。分かるわけないだろそんな言い方して。

    永い言い訳

     

    「うーんと、うーんと、つまり何でそう思うかっていうと、例えばこのへんの塗り方なんだけど──」  その後続いたぼくの感想も、大概抽象的かつ概念的、かつ的外れであったと思うが、灯ちゃんは存外熱心にその言葉に耳を傾けていた。理解しているかどうかはともかく、自分がまじめに肯定されているということは分かるのか、じゃあ、別のを塗って、また見せてよ、と言うまで、ぼくの側にびったりと張り付いたまま、そのへたな批評を聞くことをやめなかった。

    永い言い訳

     

    愛を得たのさ。

      そう口のなかでつぶやいて、幸夫は履いていた靴を脱ぎ捨てると、洋服のまま水場の中へ突っ込んで行った。着替えもないのにためらいもせず、三人とも下着の中までずぶ濡れになって遊んだ。それまで押し合いへし合いしていた兄妹は、幸夫を相手取るとふしぎなほどに結束した。ふたりがかりで散らしてくる水しぶきを顔面に受けながら、手でそれをぬぐう間すらなく、喘ぐような苦しさと、清涼な心地よさの中に、さえずるような兄妹の笑い声がエンドレステープのように幸夫の耳に響いていた。ここは天国? それとも──よろめきながら何とか薄目を開けると、遠くカフェテリアのテーブルに、ひとりぽつんと残された陽一の姿が潤んで見えた。向かいにはもう誰も座っていなかった。玉を転がすような灯の声と共に、ざばりと顔の正面に水のかたまりがぶち当てられ、幸夫は再び固く目を閉ざした。ここは天国。

      衣笠幸夫は、愛を得たのだそうである。

     永い言い訳

     

    子供とどう接していいかわからない、苦手、それは単純に子供と接する機会が少なかっただけで、

    子供も小さな同じ人間なのだと気付くと関係を築いていけるんだな、

    自分もそうなればいいのだけど、と思った。

     

    誰かと暮らすことは、必ず何かしらの情が生まれていくものなのだろう。

    愛情とか、ただの情とか、いろいろな、その相手との関係性でないと生まれなかった種類の情が。

     

    夏子の陶器のような頰は、ぴくりとも動かなかったのを思い出した。

      このひとのために、自分がちゃんと生きてなくちゃ駄目だ。

      そんなふうに、夏子は思って欲しかったのだろうか。うそだろ、と幸夫は思った。

      ぼくがちゃんと生きてなくても、生きて行けるくせに?

     いや、夏子は死んだ。夏子が死んだのは、ぼくが夏子のためにちゃんと生きなかったから?

     うそだろ。幸夫はまた思った。もしも彼女が生きている間に、「夏子の人生にとって自分は不可欠だ」と盲目的にであれ幸夫自身が信じていたならば、そこには子供らに対して今抱いているのと同じ、甘美な充足があったのだろうか──

     永い言い訳

     

    自分がいることで子供たちは今まで通りの暮らしが続けられるのだという事実にあんなに満たされた幸夫。

    夏子でも誰でも、「あなたがいないとダメなんだ」そう言って欲しかっただけなのだと思った。

    夏子が生きているうちに気づけていれば、しかし、

     

    自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。そうしないと、ぼくみたいになる。ぼくみたいに、愛していいひとが、誰も居ない人生になる。簡単に、離れるわけないと思ってても、離れる時は、一瞬だ。そうでしょう?」  皮をむかれた紅い実の上にじっと視線を

    う。こころのうちで謝ったって、それを赦してくれる君のことばは聞こえて来ない。そっちでたとえ君がどんなに俺をののしろうが同情しようが、あいにくそれも、俺には届かないよ。人間死んだら、それまでさ。俺たちはふたりとも、生きている時間というものを舐めてたね。

    永い言い訳

    そこに愛情があったのにね。

    このことは、誰と繋ぐ関係性の中にも忘れずに覚えておきたいことだと思った。 

     

    予定調和がぶっ潰されて、楽しいことに巻き込まれるのが大好きだった。誰かと暮らすってそういうことなのだと思う。

    幸夫もヴィクトルも、何かしらの情を抱く相手と暮らすこと、その相手に生活を振り回されたり癒やされたりと予定調和でないその生活を好ましく思っているように見える。

    誰かと関係を結ぶということは、誰かに生活を乱されるということだ。

     

    私は、故郷にいるとき、急に友人から遊びに誘われるのがとても好きだった。

    夜家に帰ってもうあとはお風呂に入ってのんびりしようかと思っていたのに、急にメールが来る。電話が来る。

    楽しそうなことが始まろうとしている、ワクワクする。

    誰かに楽しそうなことに誘われたら、必ず「行く行く!」と答えて飛び出していた。

    予定調和がぶっ潰されて、振り回されて、楽しいことに巻き込まれるのが大好きだった。

    面倒ごとである場合もあったけど、でも誰かと一緒に過ごすことは楽しかった。

     

    誰かと暮らすのも、その拡大バージョンみたいなもので。

    私は夫に、そういうものをもらっているのかなと思った。

     

    私は人生のなりゆきの結果、たまたま夫婦という関係性を繋いだ相手と一緒に暮しているけれど、

    それがシェアハウスでも、友人との同居でも、ペンギンでも、

    誰かと暮らすことは孤独を癒すと思う。

     

    「今夜散歩しよう」「今日鍋しよう」って気楽に言える場所に人がいる暮らしを、いつまでもしていたいと思った。

     

    人と暮らすって何だろう、と考えたことのあるすべての人に読んでほしい物語。

     

     

     ▶︎暮らしごと。

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